わたしと君盃 講師自己紹介7

  酒屋の酒知らずではいけないということから、君盃さんで日本酒を学ぼうと門を叩きました。君盃さんに頼った理由として、私の店である丸河屋の創業時からのおつき合いという気軽さもありました。そんな気軽さも君盃の酒造りを一歩入った瞬間になくなります。

 当初、私はどうせなら徹底的に知ろうではないかと考えて、酒造期間は蔵人らと住み込みを希望しました。社長からは、それだけは無理だよと告げられていたことを、君盃への蔵内第一歩で身に知らされたのです。

 蔵の製造責任者である杜氏が標準語をしゃべれません。当時60才くらいですが、冬期は酒造り一筋、他の季節は岩手で農家であるために、標準語を話す必要がなかったらしいのです。私ともまったく意思の疎通ができません。おまけにこの杜氏さんは比較的に無口で、何を言っているのかわかりにくく、その上短気ときています。私は修行の身であるので、命令をされるだけの存在。命令されても、その意味がわからず、聞き返すのも失礼という気持とそれ以上に恐かったです。このただただ怒られるだけの立場を身に知らされました。

 杜氏さんも他の蔵人も私のことを理解はおろか、存在すらうっとうしいようで、最初の1年はほとんど無視。よっぽど手が足りない時だけ、命令が来ました。

 こんな調子であっても、酒造は見ていれば、段取りなどはわかってきます。1年目の私は酒造の心意気みたいなものをつかんだものでした。

 2年目です。すでに段取りはわかってきていたので、何も言われなくとも蔵人の仲間に入って仕事をすることができるようになりました。米の重量を計っておいて、洗米の準備をすることや、洗って吸水してから蒸しまでの作業も蔵人といっしょになってすることができました。その仕事もほとんど無口でやっていました。どこかの外国に来ている同様です。東北の人は無口です。

 2年目はいままで酒業界で言われてきた酒の専門用語がよく理解でき、とくにきき酒能力はすこぶる発達できました。これは実際にやってみなければ、つかめない感覚です。仕込むとタンクからは泡が出て、醗酵します。アルコールができますね。もろみが20日くらいすると、先に出来てきたアルコールが熟成していることが香りでわかるようになりました。もろみの中にすでにフレッシュさと老ねた香りが存在しているのです。しほる前にですよ。

 醗酵が激しいと、タンクの中に蛇か龍でもいそうなくらいに動くのです。その動きと出来上ったお酒との関連が何となくわかってきたり。櫂棒でもろみをかき混ぜたりします。そのときに感じる負荷によっても、できるお酒のサッパリ度がわかったり。もろみの終盤ですごくいい香りが立ったのに、しぼったら大したことがないお酒の不思議さ。誰からも教わっていないのに、毎日お酒と付き合うとわかってくるものなのでしょう。何の世界もこういうことはあります。

 あるとき精米歩合40%の山田錦を原料として、酵母はHD-1から造った静岡県の大吟醸をずらっと並べてきき酒しました。グラスを手に取り、鼻に近づけます。す〜と息を吸うように香りを嗅ぎますと、鼻への影響の感度が違い、香りの分子の形が見えてきます。香りから想像できる色合いも加えると、ひとつひとつの区別は簡単になります。いくつグラスが並んでいようと、ひとつ当たり数秒できき当てなら可能となります。そのお酒の形を一度おぼえたら、次からはそのお酒の銘柄までわかるようになります。

 この境地に至りますと、完全にきき酒ときき当てとは別個の世界になります。きき当てだけなら、お酒の色、香り、味わいなんてことがらは不要。ただただ目の前に浮かんでくる物体をメモるだけです。きき酒の意味と役割は幅広く、自己完結な場合もありますし、自分のきき酒で他人を幸せにするという場合もあります。後者の場合が一般的に多くなってきています。

 お酒に対してこうなってきますと段々と欲も出てきます。蔵内においては、杜氏さんらにもちょっとは存在意義を与えられてきたことも実感できました。

 

 3年目に私は大胆な行動に出ます。   大器晩成の完成。

 社長と杜氏の許しを得て、タンク1本分すべて自分で責任を持つから、自由に造らせてと。

 君盃酒造にとっては、私の意見はどうだったであろうか。迷惑の方が多かったでありましょう。でも私には自信がありました。世間の騒がれているお酒に君盃は負けていない。私の個人的なアイデアですから、君盃の商品にはしてもらえないことは承知。だから自分で100%の責任を背負う。

 もし、自分が造ったお酒がぜんぜんダメで売れないようなお酒だったらどうしよう。自分で一生かかって飲んでしまおうか。そんな思いをすると寝つけません。売れる自信のある数量から逆算して、タンクを選び、足場を組んで勝手に配置してしまいました。もろみを冷やす冷却装置も自腹で購入。もう後には引けません。兵庫県小野市の山田錦と富山県稲葉村の五百万石を使って精米歩合50%の純米吟醸を造りました。発売するためには税法上もクリヤーしなければいけません。税務署にもかけあって、指導してもらい、お酒の名前も登録商標を取り、元静岡県酒造組合の専務理事であられた栗田覚一郎さんに筆で書いてもらい、ラベルはデザイン事務所で若手のデザイナーと二人三脚で作りました。大器晩成の誕生です。

 製造期間中はとにかく必死でした。何がなんだかわからない毎日です。早朝の最低気温がマイナスになるとボイラーのスイッチが凍ってしまって使えません。蒸しができなくなります。気温がそれほど下がっていない3時〜4時の間にスイッチを入れておきます。蒸しはじめるのが6時。その前に米を蒸し器に投入したり、蒸している間は雑用をしてました。蒸しが終わると忙しくなります。急冷させてタンクに仕込みます。気温4゜、蒸し立ては100゜以上の蒸し米を4゜にしろとの命令。米の芯まで4゜にするにはけっこうな時間がかかります。クーラーのある部屋に入れればすぐかもしれませんが、蒸し米はクーラーの風には当てたくないので、何度も米をひっくり返しては温度を一定に冷やします。

 タンクに仕込む蒸し米の温度は決まっていて、いくつもあるので、その温度になった米から投入します。二人一組でタンクにはしごで登って投げ入れます。この作業をしていると、蔵人の部屋である広敷からはトントントンと包丁の音が聞こえてきます。杜氏さんだけがこの部屋に入って、朝ごはんの味噌汁を作っているのです。この音が聞こえてくると、もうひとふんばりだな。早くごはんにしてくれないかなあと思ったものです。

 このように仕込が完了するのが9時頃。私は配達があるので、店に戻ります。昼休みも自営業でままならないのですが、ちょっとした時間を見つけては君盃さんに行き、お酒の様子をみました。夕方はやすらぎの時間なのでしょうか。日没とともに仕事も一旦終了。5時すぎにはお風呂にも入れる時もあります。私は蔵人が風呂に入ったら、家に帰ってもいいなあと安心したものです。杜氏は逆に私がいると風呂には入りにくいのでしょう。私にはわからないように電気を消して入っていました。

 蔵に通う毎日は起床が早くて3時、遅くとも5時です。酒屋の本業がありますので、片付けをして寝るのは12時にはなります。忙しいと飯抜き。だから辛い時は朝の3時に起きて、寝るのは12時、その間に飯は一食。給料もなくてよくやってました。君盃さんにとってもわずらしい存在でしょう。

 なにをするにしても先立つものがなければ・・・。

 考えたら、私にはお金がありません。自営業は一般的な給料ではなく、専従者給与として渡されます。はっきり言って、生活に必要なだけですよ。

 私はこの目論みを国民生活公庫にお話して、融資を得ることが出来ました。借りた金額は月払いで静銀から引き落とされました。結局トータルで5年、自分のお酒を造りましたが、一番多い時には、毎月このお酒だけに対して払う金額は、20万円にもなりました。

 造るにも必死ですが、借金を払うために売ることにも必死になりました。20代〜30代前半、給料やボーナスのない私にとって、この毎月の20万円は途方もない額です。

 毎週営業にでることを決め、東京都内や静岡県内の地酒を扱う飲食店に手紙を書き、自分で持っていって説明しました。東京へは18時台の新幹線で向かい、帰りは2時すぎ静岡着のムーンライトながらで到着。寝る間もないです。営業した甲斐もあって、お客さんも東京都内だけでも100店くらいになりました。行けば行っただけ売れることはわかりました。君盃のお酒がメニューに並ぶ。この快感が私を新幹線に乗せて、飲食店へと連れ出します。いろんな方との出会いも期待してたりして。毎週同じ新幹線の列車に乗ってわかったんですが、乗務員も同じ人達なんですよね。こんばんわの間柄にもなっていました。

 体は過酷な労働とお酒でボロボロだったことでしょう。でもそういうことって自分では気が付かないんですね。気が充満しているかのように。しかし、無理は長く続きませんでした。体の変調が2つありました。まずお尻が変です。歩くのに邪魔なものが付いています。気にしないようにしてたら、どんどん大きくなってきました。これ以上大きくなったらどうしよう。椅子にも座れないよ。しょうがないので、外科に出向き、パンツを脱ぎました。ベットに横たわった私のわけのわからない突起物のようなグリグリを医師が興味深そうに触っています。

 続いては心臓だと思いました。10秒間に1回くらい意識がなくなります。フッと瞬間に飛ぶのです。車の運転も危ないと思ってすぐに循環器科にかかりました。不整脈かなあ?両医師の診断は健康。ただし寝ていないので血液が循環しない。1週間横になっていれば元に戻りますとのこと。

 銀行への支払いが終わった時点で私は方向転換することを決心。

 お酒のことを知りたいから、お酒の生まれる母である蔵元に近づいた。そしていろんなことがわかった。親元を離れる時がやってきたのだと悟りました。蔵元に近づくことは誰でもできる。私にしかできないことは何なのか。そして君盃さんへの恩返しとは何か。君盃の門を叩いたある日から今日まで十数年が経ちました。

 お酒という物としては大器晩成はありません。しかし、私に酒魂がある限りは、大器晩成の旅は終わっていません。ここでは書けませんが、これから先どうなっていくのか、自分でも楽しみであります。何かを残し、何かを与える。それが大器晩成でできればと思います。

 

 このコラムを読むくらい勉強熱心なあなたでしょうから、蔵元ともどうぞ自分のスタンスを見つけて、素敵な酒人生をつくり上げてくださいね。

 2007年2月にSBS学苑パルシェ校の日本酒講座のゲストに君盃さんが来てくれたので、感極まって、ただただ書き上げさせてもらいました。つたない私の想い出話とのおつき合いをすいませんでした。


お酒の講座 日本酒講座 / 焼酎講座 / 梅酒講座 / 食文化探訪 / 丸河屋